先日は見苦しい日記を失礼した。
誤字脱字乱文拙文メタ…メタ…メタなどと聞きなれない言葉が駆け巡り
無責任に脱稿するというか、気軽に書きまくっている勝手サイトがこれだ。
メタ・フィクションというものによって目が覚める思いを初めて拾ったのが
・・・なんだったかわすれたが、
ミハエル・ハネケのファニーゲームとか、ダンサーインザダークとか、
福島聡「デイドリームビリーバー」とか、筒井康孝さんがロブクリエのMF傑作だという紹介文だったかわすれたが、
自己特定の証明書を無所有成長したものには、
キーワードをもたない人間理解の唯一の表現だった。
その場の空気読解、神聖な建物などによる
環境によって定める規定因子を除くと、
人体に残った内側、内容物と、外部接点に特化した表現界という内外のあいだにあたる境界、これが私となった。意味がわからない。理解能力のカタプレシー的なことがらだ。
友達もいなっかた自分が、宗教・行事・慣例、礼儀を保つはずの機能部品が未発達で、
すべての拒絶が、閉じこもり症が、無理解を主成分とする人間をつくったのだ。私の学生時代の油絵は具体的なものを書いていないか、内面描写するような、無理解/理解不能を表現している。
ところが、作品の内側、文書の内面、すべての感受内部下における、そこに広がるイメージ可能世界の住人である無意識を明らかに自覚させたのがメタ・フィクションだ。普段は透明化している人間の常時フィルター面をはっきりと表したもの。
それによって私ははじめて自分というものを認識界に浮上させた。言葉が体を震わせ、映像が目を充血させ、全身の血液を沸騰させた。肉が痙攣した。
没頭性・漫画/アニメ同一的な症状や、テレビ同一症状にたいして、MFは絶大な効力を放ったのだ。ゲームも中断せざる終えなかった。絵をかくこと漫画を描くことすらやめた。ネトで検索もメタ、youtubuのマッドもメタ・・・というふうにそれ以降はあることないこと、なんでもメタによって解決することを心がけている。
日本人であること、自己であることの証拠を何一つ持ってないものにこそ、
メタ証明書の認識所存を与えたまえ。
ええと・・・というわけで、
最後になってしまったが、この記事画像について。
ウニプリのほうでは、お祝い絵の依頼用に用意された
さまざまな素材を組み合わせている。
上のはそのうちのひとつ・・・グラフィック的な壁絵。
ブレイク感がいい。この丸い円の内側に、写真をはめ込もうかと。
そういう感じ。
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