メタフラットの作例。
これもプリント描画なんです。
印刷した画像は
こちら。
プリント自体は
普通紙のきれい画質、程度なんですが、
その後の画質向上は、
顔料ペンやら、コピックやら色鉛筆、絵具などでかきかき。
アナログでのレイヤー乗算合成が実現できたので
その作例です。
これで完成なのか、どうか迷いながらのアップ。
ポートレート風の日の丸構図を「図」として、
この周辺の「背景」なんですが、
深み塗り、古典塗り、ペタ塗り、などで
油絵具ぬったほうがいいのか・・・・悩みますね。
■見所 その1
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こうしたように、パソコンで描いた2次元コンピューターグラフィックス(2DCG)
をプリントして、
プリントなどを、アナログ上で、レイヤー乗算の合成する手法をつかってつくります。
ポイントは2DCGと絵画が「交わった」かどうか、この点に限ります。
つまり何が言いたいのかというとですね、
まず1例をあげてみると、
例えば最近話題となった、
きめらこなた問題(↑ウィルスバスターのように、カオスラウンジ・バスターが作動し
次々と終わらない検出が繰り返されている様子です。)
などを見ていても分かる通りですが、
絵画と2次元CGとの文脈は全く交わっていないのです。
00年代以降のコミュニケーションやコンテンツの土壌で
あらたに生まれた2DCGですが、
そのうちの、ガラパゴス進化的な日本を遂げていった2次元CG
(萌え、空気系、セカイ系、つるぺた、同級生、妹、ツンデレ、ヤンデレ、ボコデレ、ガンデレなどの属性)
というものがあります。
アニメを軸に2次元の世界で繰り広げられるキャラたちのキャラ絵のことです。
これと、、
90年代以前には主であった、表現と消費社会の国際的アーキテクチャに属する絵画とが、
「平行線」である事実をあらためて再確認させられたわけです。
交わるわけない、と思われるでしょうが、
でななぜ交わらないのか、交流不可能をどうすれば解決できるのか
それが課題なのですが、
こうしたそれぞれのアーキテクチャ、
絵画では、表現/消費社会というものと、
2DCGではコミュニケーション/コンテンツというものの
この双方の環境を維持しながらでも、
コラボレーションできるかどうかにかかっています。
平行線を乗り越えて超克しようとする試みで、
美術と2DCGとの双方の両側から交わる点に向けて
「メタ フラット」として世の中に提示できればいいのですが。
皆さんどうぞよろしくおねがいします。
[2回]
----------------つづき-------------------------
梅沢和木(梅ラボについては
こちら)の狙い目はいいとおもいます。すばらしい。
両者の交わらない関係性を、あえて逸脱して、リアルに体張って越境していこうとする姿にうつり感動します。
コミュ/コンテンツ土壌となってはじめて、生まれて出てきたものを、
美術文脈のほうへ持ち帰ってしまい、そちら側で迎え入れられ評価される=美術の文脈に加担する
ことに、双方の平行線問題だ浮き彫りになってきます。
美術は批判することに関しては、たかい能力を発揮しますが、
批評性やハイコンテクストだけでなく、日本人の側として立って、
国際標準に向けt、どう交流させたらいいのか、その点を含めて投げかけるものが現在問われているものでしょう。
日本人として・・・このことを、あえて相対化して「人物像」として言い換えれば、
記銘性による価値というのを、歴史に刻みこみ続けることで
分厚い文脈をもってきた、主体性を重要とする、国際的アーティスト像、
一方では、
ネットの匿名性の重視や、シンボルを立て周りが集団運営して、自己認識を空洞化するような日本人的な像、
そうした二重像の交流でもあるのです。
そうした異なる人たちが、実は衝突しているという現状は見えにくくなっています。
さらにWEB進化し、AR進化していく社会となると、
いっそう人々のつながりや世の中は、可視化され軽量化されるでしょう。
それに従って人間はもはや主体をもった人格的な人間から、
「ライトユーザー」といったものに移り変わっていき、
「没入度」もそうじて高まっていく。
軽い端末に、常に、低リスクで、頭からのめり込んでいく。
こうした近視眼的な状況になると、
逆に世の中が見えにくくなってくるのです。
そうしたことを、強調することで問いかけるものが、
アートの役割のひとつにはあるのですが
美術は価格的にみてもかなりヘビーなほうで
「ライトユーザーが没入して体感理解」する要素に対して、
批評することの一手しか打ち出せていないのが現状じゃないでしょうか。
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