エリクサー
1620mm × 1303mm
画布 プリント 油彩 アクリル Photoshop Illustrator デジカメ ニス 半紙
■使用したクリエイティブコモンズ
NASA
http://www.flickr.com/photos/gsfc/4427417620/
By Pink Sherbet Photography
http://www.flickr.com/photos/pinksherbet/3351774095/
By R'eyes
http://www.flickr.com/photos/grrphoto/246147199/
■pixiv 使ってもいいよ
装飾的な模様の絵ですが、ブクマし忘れて報告&イメレスできてません(ノД`;)ごめんー
以下拡大です。
左上
左下
右上
右下
このエリクサーという作品は
画像が多量にコラージュされて
イメージの錬金といった意味合いを持った作風では、
最初の作品となる。
群生生物のような塊に見えるような表現をとり
アーサー・ケストラーのホロン構造のように
微小な画像ファイルの断片を集める中での
巨視的な地点からの捉えなおしでもあった。
市川真人のいう、言葉や画像や音が
「デジタルデータとして一元化した世界」によって、
言葉や映像や音が、これまでは違い居場所を変えたことについて
筆者もほとんど同じ考えを持っている。
つまり、私たちは感じる方法を変えてしまったのだ。
西洋式美術の連続性の中で、
形式の逸脱や、技法手法を脱領域化していく絵画の
フォルマリズムのポストモダン化は、
「絵には外側しかない」、だけど、それを絵で表現する、
つまり「絵しかない」パラドクスを常に含んできた。
絵画はその「内部」しかないのである。
コンピューターと絵画とを往復して絵の居場所を転じることも
同様に絵の内部にある。
内側だけでやっている性質上、
テクスト論では、デリダの脱構築が既にあらかじめ織り込み済みで
起こることとして用意されていた、とも言うように、
フォルマリズムの連続性は「手法=技法」の逸脱と
絵の「居場所」の、この二つの脱領域化は
テクスト論的な構築=非構築と同様に、そうなるしかないのだ。
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