人におすすめできる製品がでそうだ。未発売。
ソニー「NEX」
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20100511_366237.htmlすぐ目の前に立っている人、その人の様子がなにやらおかしい、まず第一に2つあるはずの目が1つしかない。脇をしめた体を揺らしくんくんしている…
カメラだ。私を狙い済ましている。
周りから撮られるときになってはじめて気づいたことが、カメラ人たちは正面からせまる無言を伝えようとする意思の迫力はちょっとやめてください、撮らないでください、と被写体に言わせてしまうほど暗黙の圧力を睨みつけまとわりつくことだ。
その体から滲み出る「意思」の力はたんなるAFやフレームの迷いから発散されるのかもしれないが、この頭から足先まで「意思」のはいった塊となった即身の姿。ひとつめの化身のようだ。
しかしながらそれとは打って変わり、カメラ人を横から眺めるとロダンの考える人のよえに物々しい無関係に様変わりする。
首をそっぽに向けた姿に込められたメッセージとは、この人は自分とは全く関係ないよその人、私はいくら取り繕ったって部外者、退散、とおもわさしめたいかという程の没入性を横向カメラ人は全身から発散させながらAFをくんくんさせている。
同じようにじぶんもくんくんして物々しく無関係のカメラ人なのだろうか…
断っておくがじぶんはカメラ人だが他のカメラ人とは違うのだということを反事実的条件文を使い、くんくんを否定したい。
というのも、私からカメラを除いた限りにおいてはわたしはカメラ人でないからだ。これは「欠如の存在」を述べる表現であるが、こうした言葉の使い方は本来的には規則性にとらわれず自由であるのだというのと同じように、カメラのほうでもマニュアルが行き届かないスタイルで自由に撮影する姿となりたい。AFをくんくんさせて。
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