(1)あんたはできる奴や。やりなはれ。動いてみせんな。
(2)あかん。もうあかんで何やっても。今更なに言うてんの。もうどうしょうもないわ。
俺は(1)の声伝導と、(2)の分裂営放送とのあいだで板挟みとなり、
デュアルチャンネルのまえでは失語的なまでの静観縛りのまま開幕をきられ、話を聞き入ってしまっていた。
*注約
①は元気すぎて万能感。
②はノルアドレナリンきれぎれな時の無能感。
図式は
俺=1人、
(1)は俺の内なる声、
(2)は妨害電波みたいな声
普通に考えると、対面したコミュニケーションにはリスクがあり、一方、自己言及には交流の負担がなくコストがかからないと思われるかもしれないが、
こうしたマルチ各自己言及となれば、低度の警戒を常時するような無限・低コストがかかってくる場面に出くわす。
話しの内容によっては突然、禁句ワードも出て傷痕を残すこともあるので、いつでも反邪念の体勢をかまえれるように、神経を繰り返し練習する課題も含め、負担が大きい。
実はこうしたメタ・トーク、それは俺のちょっとした一挙手一投足なんかでもぴたりと閉幕してしまうような、
身体性の主導権のまえではとても弱々しい存在なのだ。
わずかな身動きで雲散無消してしまう内観トーク。
これを聞き続けるためには滅私傍聴せなあかん空気を感じると同時に、メタトークの行く末を思う途端に腰が重くなる。静観縛りがおこるからだ。
こうした、ふれあい低コスト型乖離性人格がおのおのに盛り上げをみせるトークに、俺が「独り言」で参加する姿をもし見かけたらそれにたいして冷ややかな視線を配る、または恐怖感を満喫することができるだろう。
以上で、暑中お見舞い申し上げます。
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